大阪ガラス産業史|一般社団法人大阪硝子工業会

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大阪ガラス産業史

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大阪硝子工業会では2019年に66年を迎えるのを記念し、大阪のガラス産業の歴史を後世に残すべく、ガラス史を編纂しております。 編纂にあたっては会員企業および、大阪のガラス業界を支える各企業の協力をいただき、大変貴重なお話や歴史的にも価値のある資料を拝見させていただきました。
取材にご協力いただきました皆様には心より御礼申し上げます。

大阪ガラス産業史制作~佐竹ガラス株式会社 訪問報告~

訪問日 2018年5月22日
-取材を終えて-
大阪の中心地から電車で30分。のどかな住宅街にある佐竹ガラス様を訪問いたしました。 社屋は風情ある立派な日本家屋で、思わず写真を撮ってしまいました。趣のある囲炉裏でしっかりお話をお聞きした後、 実際にバーナーを使ったトンボ玉を作っている現場も見させていただきました。作り方はとてもシンプルながら、色や模様は一つとして同じものはなく、どの作品も魅力的でした。

■佐竹ガラスの創業の歴史

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昭和2年に現在と同じ大阪・和泉市で創業した。社屋も当時から変わらず残っており、国の有形文化財にも指定されている。和泉市は人造真珠の地場産業として栄えており、周囲には10数社のガラスメーカーがあった。佐竹ガラスも人工真珠の核の原材料であるガラス棒材を供給していた。昭和30年頃からは人工宝石向けの様々な色のガラス棒を製造するようになり、当時はアメリカからバイヤーが直接買付けにくるほどであった。創業以来、BtoBが事業の軸となっていたが、15年ほど前には直営店をオープンさせ、直接購入できるようになった。その後、インターネットの普及とともに直営店を閉鎖し、ネット通販に転換させた。この他、トンボ玉教室、工場見学なども行っている。

■ガラス産業が衰退する中で
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溶かしたガラスをレールの上に均一に引き延ばし、1本1本職人が手作業でカットいていく。 いわゆる労働集約型のこの業界は、台湾や東南アジアなど人件費の安い国へシフトしていき、日本国内は衰退の一途を辿っていった。 そして、かつて10数社あったガラスの棒材を製造するメーカーは、佐竹ガラスと大阪にあと1社残すだけとなった。

このような中でも、創業地で一貫して色ガラス棒の製造を行うことができている背景として、個人の作家さんが増えたこともあるが、 色の種類が多いことでお客様のあらゆるニーズに応えられたことにあるという。「目に見える色はだいたい発色することができます」と佐竹社長がいうように、 工場には百何十種類ものガラス棒が在庫されていた。「浅スキ」「浅ギョク」といった佐竹ガラス独自のカラーバリエイションがあり、さらにまだ色の追求もしているそうだ。

■色ガラス棒から広がる可能性
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色ガラス棒は、それを高温のバーナーで溶かして加工することで、ネックレス、イヤリングなどの装飾品の他、置物、マチ針など多種多様な製品に生まれ変わる。 中にはマドラーなど直接口に触れるものもあり、人体に僅かながら影響がある場合がある。そのため、ガラス棒の用途にも注意を払う必要があり、工業試験所などで分析や組成の開発などを行ったこともあるという。

これまでの実績もあって、平成2年には宝塚の清荒神から、鎌倉時代の天蓋、仏さんの装飾品などガラス関係の復元を全て依頼されたことがあるという。 この復元作業は、当時のやり方で復元することが求められるなど高度な技術と経験が必要になるものであった。X線などで成分を分析した資料を基に行われるが、 実際は地中に埋まっていたものは土の分子などが結合し、分析結果通りにはいかないこともあったという。しかしながら、佐竹社長にとっては非常に面白い仕事の一つであったと振り返る。 また、この復元作業の中で、「古代色」「和の色」に惹かれていくきっかけになり、現在も色の追求をしているという。

■ガラス業界へのメッセージ
ガラス業界はかつての勢いはなくなってはいるが、見渡せばやはり特色のあるところだけが残っているように思う。その特色を活かして、わき見をせず、真っ直ぐに突き進んでほしいと佐竹社長はいう。

佐竹ガラス株式会社
http://www.satake-glass.com/

大阪ガラス産業史制作~株式会社奥村坩堝製造所 訪問報告~

訪問日 2018年5月15日
-取材を終えて-
ガラス産業の歴史を語る上では欠かせない「坩堝(るつぼ)」。大阪硝子工業会の会員からも、是非坩堝屋さんの話を聞きたいという意見があり実現いたしました。快く取材を引き受けていただいただけでなく、工場見学までさせていただきました。100年を超える歴史で受け継がれてきた職人技を目の前にし、職人さんの気迫に思わず息を飲むほどの緊張感の中、見入ってしましました。まさに、百聞は一見に如かずでした。

-インタビュー内容-
■奥村坩堝製造所について

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明治45年に大阪市東成区で創業し、現在も同じ場所で製造している。ガラス溶融用の坩堝、耐火物、セラミック溶射材の製造のほか、自社でガラス溶融を行い、ガラス製品の製造も行っている。創業以来一貫して坩堝製造を中心とした事業を行っているが、近年ではインドのホーローメーカーからも引き合いがあるなど、海外からも品質の高い奥村製の坩堝が注目されている。



■技術伝承と新たな試み
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小さい坩堝などはろくろを使って成型する。まさに職人技ともいえるこの技術は、日本では奥村坩堝だけとなった。また、ねこツボと言われる背が丸くなった形状の坩堝は、ツボの周りを職人が回って手で土を積んでいく。お客様の仕様にあったオーダーメーイドの坩堝は、寸分変わらず作る高度な技術が必要とされる。土を慣れるところから始まり、最低4~5年の経験を積まないと坩堝を作ることはできない。同じ条件でも安定しないこともあり、職人さんはまさに生き物を扱うかのごとく、日々土と向き合っているという。

坩堝を使う小・中規模のガラスメーカーにとって奥村坩堝はなくてはならない存在であるが、決して驕ることはない。むしろ、「ご要望があれば何でも言ってきてほしい」という原社長。一緒になって良いツボをつくることが、日本に現存する数少ない坩堝メーカーの供給責任であり使命と感じているという。

また、これまではいわゆるB to Bの事業がほとんどだったが、最近ではインド料理のナンを焼く家庭用(ポータブル)のタンドール窯も製造している。テレビ番組でも取り上げられ、タレントのタモリさんも愛用しているとのことで話題になった。100年を超える技術の蓄積から、こういった新たな派生商品も生まれている。





■魅力的な会社を目指して
平成28年に現社長(6代目)の原英治氏が社長に就任すると、SNSの活用や様々な媒体からの取材も積極的に受けるようになった。取材を受けて直接売上げに影響することは少ない。ただ、従業員にとっては、メディアに取り上げられることで励みになり、興味を持って入社を希望してくることもあるという。この業界は「人」があってのこと。魅力的な会社にすることで、従業員が誇りを持って仕事に取り組むことにつながる。直接的な投資だけでなく、こういったメディアの活用も「人」を育てることに一翼を担っているという。

■大阪のガラス界ヘのメッセージ
「ガラス業界がなくならないように、火を絶やさないように、協力できることは何でもする」という力強いメッセージをいただきました。



株式会社奥村坩堝製造所
http://www.okumurarutubo.co.jp/

大阪ガラス産業史制作~株式会社山村製壜所 訪問報告~

訪問日 2017年10月2日
-取材を終えて-
初めてびん工場の見学をさせていただき、溶けたガラスが金型に移り成型していくそのスピードに圧倒されました。 大量生産をしている工場では、もっと速く、まさに火の玉が飛んでいるようだというお話には驚かされました。 ガシャンガシャンと機械の音が鳴り、夏場は暑いというより熱いに近いほど過酷な現場で生まれるガラスびんに、何とも言えない愛着を感じてきました。

-インタビュー内容-
■山村製壜所の歴史 親会社の日本山村硝子(株)は、大正3年に西宮に山村製壜所として創業した。昭和30年に山村硝子(株)として法人化し、 ガラスやプラスチックの容器を製造していた。平成元年に広島硝子工業(株)と合併、平成10年に日本硝子(株)と合併して、日本山村硝子(株)となった。 現在もガラスびんのトップメーカーとして業界を牽引している。

一方、昭和58年、ガラスの可能性を追求するための開発部門として (株)R&Dを設立し、翌年に(株)山村製壜所を設立した。 量産には不向きではあるがデザインに特徴のあるガラス容器を製造し、大量生産ではできない細やかな体制で小ロット・多品種に注力している。

■山村製壜所の強み~少量・多品種と多彩なカラーバリエーション~

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山村製壜所は1日2-3万本を生産しており、大手の1/10程度の生産数であるが、この小ロット生産がお客様のニーズにマッチした。カラーバリエイションは、同業他社が5種類くらいに対して、30種類以上のラインナップがあり、特に「瑠璃色」は山村製壜所を代表となる色として認知されている。 このような独自性を活かして、低迷するガラスびん業界の中でも着実に業績を上げている。







■山村製壜所の強み~オリジナリティのある形を実現する金型技術~
ガラスびんを製造する中で、大きいびん、小さいびんを同じラインで製造するのは技術的に難易度が高い。 同じラインで大小違う型を使うと、ガラスの引き上げ量が一定にならないからだ。これを長年蓄積した技術力でクリアし実現したことで、 オリジナリティあるデザインのガラスびんを小ロットでも生産することができるようになった。

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「キリンウイスキー 富士山麓ブレンテッド18年」は、ボトルの底に富士山が彫り込まれており、斬新なデザインで、2016年GOOD DESGIN AWARDでGOOD DESIGN賞など様々な賞を受賞した。 ボトルの底が肉厚だと、歪が起きやすく高度な技術を必要とするが、3年がかりの開発で実現した。 ウイスキーの琥珀色が富士山の頂上から裾野にかけて絶妙にグラデーションされ、まさに夕焼けに包まれた富士山のようなデザインになっている。



■今後の展開
ガラスびん業界は全体的には緩やかな下降をたどってきたが、その中でも近年ではウイスキーブームやアロマ、ジャーブームなどのガラスびんが必要とされる場面も多くなってきている。 ミスタードーナツが販促用で販売していたブルックリンジャーは全国的にブームとなり、山村製壜所の知名度も上がった。 ハンドリングの難しさから流通の課題はあるが、決してガラスびんは嫌われてはいない。限られた供給能力の中で、いかに付加価値を高めるかが重要になってくる。 また、来春に全炉同時炉修を計画しており、思い切った設備投資になる。しかしながら、10年先を見据え、次の世代につなげていけるようにしたいという。

株式会社山村製壜所
http://www.yamamura.co.jp/yamabin/

大阪ガラス産業史制作~株式会社五鈴精工硝子 訪問報告~

訪問日 2017年10月4日
-取材を終えて-
硝子ボタンが時代を超え、電子機器に搭載されるガラスになり、五鈴精工硝子様の歴史の深さを感じました。 また、技術の積み重ねによって進化する特殊ガラスは無限の可能性があり、新しいマーケットの主役にもなり得るように思いました。

■(株)五鈴精工硝子の歴史

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1905年垂水硝子製造所として創業し、硝子ボタンの製造などをしていた。当時は軍服などに使用されていたといわれている。 戦時中は企業統合により日本硝子釦(株)となった。戦後は、硝子碁石の製造をはじめ、当時市場のほとんどを独占していた。 現在は、樹脂や石が主流だが、当時はガラスの碁石は普及品として碁会所などで使われていた。

1954年には社名を五鈴精工硝子(株)に変更した。1961年には熱線吸収ガラスを開発し、手術室などで使われる無影灯に使われていた。 その後、YAGレーザー遮断用として使われ始め、YAGレーザー用のガラスとしては世界のトップシェアを争っている。

1969年には非球面レンズを開発し、その後トロイダルレンズを開発した。トロイダルレンズはOHPに使用され、この頃から光学機器メーカーとの取引が始まった。 1993年には後述する一体型レンズアレイを開発し、液晶プロジェクターメーカーのほとんどに供給するなど主力の事業へと展開していった。 2007年にはプロジェクター事業の基幹工場として泉佐野にりんくう工場を竣工した。2015年に、株式会社五鈴精工硝子になり、西成にあった本社と工場をりんくう工場に集約させた。

■ターニングポイント~一体型レンズアレイの開発~
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五鈴精工硝子のターニングポイントとなったのが、1993年の一体型レンズアレイの開発である。 複数個のレンズを一体化したもので、液晶プロジェクター向けに開発された。 光源の前にこのレンズを置くことで、光源から出てくる光を均一にすることができ、スクリーンに映しだされたときにムラなくキレイに投射することができる。 従来は、1つ1つのレンズを張り合わせて1枚にしていたが、成型によって一体型にしたのが当時は画期的であった。液晶プロジェクターの黎明期からトップランナーとして業界を牽引した。

その後、液晶プロジェクターと同じ方式で投影するリアプロジェクションテレビ(リアプロ)と呼ばれるテレビにも一体型レンズアレイが採用された。 当時は、液晶、プラズマとこのリアプロが薄型テレビの主流になりつつあった。2005年には売上げもピークに達し、事業を拡大していった。 2007年にはさらなる量産に対応すべく、現在の本社がある泉佐野のりんくう工場を竣工し、翌年から操業を始めた。 しかしながら、液晶テレビの低価格化に追随できず、リアプロの市場は大きく減少していった。現在は、露光装置、HUD、3Dプリンターなど新しいマーケットにも期待している。

■五鈴の強み
五鈴精工硝子は、ガラスを組成から開発する溶融部門と、ガラスを金型で成形してレンズなどにする成型部門がある。 溶融部門では、ガラス自体に機能を持たせた特殊ガラスを開発している。多彩なラインナップがあり、1nmの波長単位でカスタマイズすることができる。 小ロット多品種を売りにし、機動性やリードタイムなど大手ではできない対応力に注力している。また、成型部門でも同様に従来成型では困難な形状に対応し、お客様の多様なニーズに小ロットから対応、量産している。

■今後の展開
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6年ほど前から、ガラスの組成開発の技術を活かして、リチウムイオンの負極材の開発をしている。 産業技術総合研究所との共同開発を行っている。 リチウムイオン電池は、価格や性能の向上が著しい業界でもあるため、電池メーカー自体も慎重ではあるが、全固体電池など特殊な電池に使用できればと期待している。 また、五鈴のもっている強みと、他社の機能を相互に補完して、コラボレーションするような事業もあり、新たな市場開拓にも力をいれている。

株式会社五鈴精工硝子
http://www.isuzuglass.com/

大阪ガラス産業史制作~松野工業株式会社 訪問報告~

訪問日 2017年10月2日
-取材を終えて-
グラスビーズはあまり馴染みがあるようであまりありませんでしたが、実際に見てみるとまさに高級品にふさわしい輝きでした。 松野末吉社長時代に築かれた基盤は脈々と引き継がれ、ビー玉製造では日本で唯一のメーカーとして今なお製造していることに感服しました。 また、ビー玉の玩具やラムネ以外の展開も期待したいと思いました。

※詳細な事前資料をいただいておりましたので、一部引用させていただいています。

■松野工業の歴史

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昭和10年、先代の松野松太郎が松野硝子工業所を創業。現在は業界で唯一となっているビー玉製造はこのときから始めた。 昭和22年に松野末吉氏が松野工業(株)として法人化した。 当時大阪にはグラスビーズを製造する会社は多くあり、パイプを引くだけの会社、そのパイプをカッティングするだけの会社、カッティングしたシードビーズを丸めるだけの会社とそれぞれ工程別に棲み分けされていた。 当初松野工業もカッティングは外注で生産していたが、他社から機械を購入し、自社で改造などを進めて独自のカッティングマシーンへの展開していった。 また、このときから機械を自社でメンテナンスするという技術も蓄積され、現在も築炉部や鉄鋼部に引き継がれ、自社で機械を製造からメンテナンスまで対応している。 また、戦闘機に乗っていた経験から、海外にも常に目を向け視野が広かった松野末吉社長は、モノづくりだけでなく情報収集にも注力し、当時としては珍しく香港に事務所を設けた。

昭和61年には、宮崎県門川町に九州工場を竣工させた。ガラス工場はいわゆる3Kといわれる業種で、人手不足が深刻であった。 たまたま取引先の会社のあった宮崎に行った際に門川町を訪れ、若者が多いながらも働き先のない現状を見て、宮崎への工場の移転を決断した。 また、平成4年にはグラスビーズ溶解炉を増設し、月間100トンの生産体制を構築した。現在は、大阪工場からこの宮崎の九州工場に生産拠点を集約し、大阪工場では仕上げの部門だけが残っている。

平成9年に松野幾二氏が社長となり、今年6月には松野龍太郎氏に引き継がれた。幾二社長の時代からは、組織体制も大きく変え、社員の技術向上にも力をいれている。 社員一人一人にテーマを与え、オンリーワン企業であるからこそ自分でやる力をつけるというのを目標としている。 また、現在はビー玉、ビーズなどの主力製品の製造・販売のほか、輸入雑貨商品の販売や賃貸業など多角経営も行っている。

■大量生産とその後
グラスビーズは民芸品で使われる安価なものからいわゆるオートクチュールなど高級品まで多様なニーズがあり、大量生産に追われ、供給ニーズを満たすために品質が疎かになっていた時期があった。 一方で、韓国、台湾、中国なお安価で大量生産できるメーカーが台頭してくると、松野工業としての役割を自問自答するようになった。 その答えが、生産量にとらわれず世界の需要ピラミッドの頂点の一握りの需要に応えるというものだった。この経験から、エンドユーザーの声をものづくりに反映するなど、品質にも力を入れている。

■ビーズのトレンドと今後の展開
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現在、ビーズの多くはアメリカや中東に輸出されている。アメリカはイブニングドレスなど高級品に使われている。 しかしながら、リーマンショック以降は安価な中国製品に押され気味になっている。一方、中東では伝統的な衣装にビーズが使われ、ドバイを起点に一大マーケットになっている。 中東では既製服はあまりなく、テーラー仕立てでカスタマイズも多い。これがビーズの需要にもつながっている。

中国など安価なビーズメーカーが台頭してきているが、環境規制などでメーカーは苦心している。 松野工業としてはメイドインジャパン回帰向けて品質で勝負をし、まだまだ続けられる100年企業を目指したいと考えている。 また、ビー玉は日本で唯一残るメーカーであるが、新たなニーズや販路なども開拓していきたい。

松野工業株式会社
http://www.matsuno-i.com/

大阪ガラス産業史制作~新井硝子株式会社 訪問報告~

訪問日 2017年9月26日
-取材を終えて-
医者でありながら、多角経営で硝子以外の様々な仕事をしている新井社長ですが、すべての基本は新井硝子と考えているというのが印象的でした。 製造業から問屋業に業態が変わるなど転換期はありましたが、先代から続く硝子屋としてのアイデンティティは脈々と引き継がれているのだということがよくわかりました。

■新井硝子(株)の歴史
昭和20年に新井康弘氏が城東区新喜多で創業。化粧瓶、薬瓶などの玉瓶といわれる白い瓶の製造をしていた。 当時二大大手化粧品メーカーであった花王石鹸(現(株)花王)、中山太陽堂(現クラブコスメティック)のクリーム瓶の製造をしていた。

昭和21年、現在も取引が続く金鶴香水(株)(現(株)マンダム)が扱うガラス瓶の全部を受注、専属工場となった。 昭和22年に新井硝子産業(株)と改称し、人工吹製壜の業界では初めて半自動製壜機を導入した。 24時間操業で、受注生産だけでなくオリジナルのガラス瓶も作っていた。当時、ガラス瓶は作っては売れるという時代でもあった。 昭和23年には、全自動製壜機の導入で製造の拡大を図るとともに、業界で初めて電気炉を導入した。昭和45年8月に原因不明の工場出火により製造を廃業し、硝子瓶全般を扱う問屋業に転換した。

昭和52年に新井基道氏が社長となった。合併により南大阪ビルディングガラス部と改称し、本社を現在の所在地に設置した。 平成6年に現社長の邦彦氏が入社したころは、ガラス瓶業界は斜陽産業と言われていた。 1デザイン100万本出荷し倉庫を持つほどであったが、現在では多品種小ロットに対応し、輸送も客先が指定するトラックに混載するなど効率化を図っている。 平成11年に新井硝子株式会社に改称し、業務拡大を図っていった。平成26年邦彦氏が社長に就任、現在に至る。

■(株)マンダムとお付き合いの中で

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マンダムとは昭和21年から続く取引先で、ほぼマンダム向けのガラス瓶のみを取り扱っている。 「最先端だが昔のことを忘れない」という“マンダムイズム”を掲げ、新井硝子との取引も信頼と信用で成り立って継承していけているという。 マンダムは西村家が経営をしているが、西村家で新井社長のことを知らない人はいないほどである。一方で、1988年のマンダム上場後は、色々な面で難しいと感じることもある。 マンダムあっての新井硝子と考え、マンダムの社員でもあるという気持ちで行動することで、次の仕事につなげている。




■今後の展開
富士フイルム、味の素など異業種が化粧品業界に参入するなど、新たな潮流で大きく変化をしていっている。 また、化粧品の瓶に樹脂を使うことは考えられず、全く脅威と感じていなかった時代もあったが、今ではそのニーズは逆転している。 このような中でも、いかにガラスの良さを提案するかが使命であると考えている。マンダムの新商品開発の社内会議に於いて、 包材開発部や購買部の担当者がプレゼンするにあたり、ガラス瓶の良さをアピールする下地を作るのも新井硝子の仕事である。

マンダムは自分からマーケットを作っていく会社であるという。現在、これまで注力していなかった女性をターゲットにした商品の発売や、 汗臭・加齢臭・ミドル脂臭対策など、他社と異なる着眼点の商品開発に力をいれているが、その中でもガラス瓶で役に立てられればと考えている。

新井硝子株式会社
大阪市浪速区難波中3-4-40 南大阪ビル

大阪ガラス産業史制作~井原築炉工業株式会社 訪問報告~

訪問日 2017年9月26日
-取材を終えて-
設計やシミュレーションなど研究開発においては、先端的な機器などを使って行うことができますが、 それを形にするのは一人一人の職人であるということに改めて気づかされました。物心ついたころからエアコンで涼しい環境に慣れているような世代が、過酷な現場に飛び込むのは確かに大変だとは思います。しかしながら、この業界の空洞化を避けるためにも、人材育成は業界全体で取り組んでいくべき喫緊の課題だと感じました

■井原築炉工業(株)の歴史

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明治25年、初代井原兵吉氏が井原組を創業。明治29年の大阪麦酒(現アサヒビール)吹田工場の製ビン工場建設から始まり、ガラス炉の築炉事業の基盤を築いた。その後、大手硝子メーカーの築炉も手掛けるようになった。昭和23年、井原築炉建設(株)を設立した。この昭和20年台から30年台は、築炉事業は右肩上がりの時代であった。

昭和33年に井原巖氏が社長に就任し、大きな転換期を迎える。「これまでの煉瓦を積むだけの築炉では面白くない」とプラント事業へと展開していった。ガラス溶融炉の付帯設備を含めすべて(成型設備以外)携わるようになった。その後、近畿にある多くのガラス瓶メーカーのプラントも手掛けるようになった。昭和37年頃からは、横浜、九州、名古屋と営業所を開設し、業務を拡大していった。昭和42年、井原築炉工業(株)に社名を変更した。昭和62年からは、台湾、シンガポール、インドネシア、中国に支店及び子会社を設立。平成16年に井原眞一氏が社長に就任した後の平成19年にも韓国で現地法人を開設している。 平成20年、井原悦司氏が現社長に就任。平成26年に排ガス設備メーカーのナフコ(株)を子会社化するなど多様な展開を進めている。

■人材育成と技術の向上
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築炉作業は一人一人の職人の技術伝承にかかっており、一朝一夕では育たない。また、3K職場である上に人口の減少で人手不足になるという課題もある。しかしながら、井原築炉工業では、新卒者の継続的な採用と育成に取り組み、数多くの優秀な築炉工を抱える企業となった。また、築炉技能士という国家資格の制度構築にあたっては、大きく関わったという経緯もある。更に大卒・院卒者を積極的に採用し、エンジニアの育成にも力をいれている。 この人材への考え方は、職人とエンジニアが知恵を出し合い、設計の段階から炉の長寿命化を考えた補修のしやすい構造にするなど、メンテンナンス技術の向上にも繋がっている。どれほど技術が発達しても、最終的には職人の五感に頼るところが多く、経験や情報などフィードバックの積み重ねが常に大事だと考えている。

■海外展開
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井原悦司氏が現社長に就任した後は、海外への営業展開も積極的に行っている。ドイツ、上海、北京などの展示会に出展したことで、多くの海外企業に「IFC」を知ってもらう事ができたが、ヨーロッパの、特にドイツのエンジニアリング会社が東南アジアにまで進出している営業手法については見習うところも多いと考えている。近年ガラス炉の新設は減少してきたが、海外事業の比率が上がってきた事もあって、全体的に見ると売り上げは大きな影響なく推移している。



■今後の展開
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工業炉関連の事業は、世界的な環境規制の広がりが見込まれることから、排ガス処理設備などの比重が増すものと考えられるが、井原築炉工業の強みは何と言っても120年以上に亘り培ってきたガラス炉のエンジニアリング技術である。省エネ、高品質、長寿命を目標としたガラス炉の研究に、現在も力を入れており、近年その為の物理モデル実験や数値シミュレーションにも取り組んでいる。今後もガラス炉関連の仕事がコア事業であり続けることは間違いない。

井原築炉工業株式会社
http://www.ihara-furnace.co.jp/

大阪ガラス産業史制作~株式会社丸山工業所 訪問報告~

訪問日 2017年9月21日
-取材を終えて-
ガラスビンの需要は落ち込んではいますが、表面処理技術は多用途でニーズがあり、それにうまく応えて発展したのだなと感じました。 また、工場の入り口には、丸山工業所の発展の要でもある大規模な排水処理設備をみることができました。 製品や技術ばかりに目が行きがちですが、こういった後処理も含めて事業を考えることの大事さを学びました。

■丸山工業所の歴史~創業から2003年まで~

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1950年、大阪市旭区中宮で現社長の祖父である丸山松之介氏が丸山兄弟工業所創業。その後、1953年に、(株)丸山工業所に社名を変更した。創業者は、現在の東芝の下請け企業で、「マツダ」という白熱灯の灯りを柔らかくするための、電球の内面をフロストする技術を習得し、松下電器から白熱灯の内面フロスト加工を請け負っていたと伝えられている。今ほど寿命がなかった電球は、各家庭に必ず置いていた時代であった。その内面にフロスト加工をするのは難しく、高い技術を持っていた。注射器の目切りのフロスト加工の仕事もあったが、量産が見込まれる電球に特化していた。その後、照明器具から食器、ビンへとシフトしていった。

1973年丸山慶一氏が社長になり、1980年には城東区新喜多に工場を移転させ、当時増えていた化粧ビンのフロストへとシフトしていった。そして、大手化粧品メーカー様から仕事を任され、2000年くらいまでは右肩上がりで需要があった。一方、1970年後半から酒ビンのフロストも始まった。1981年に特殊フロスト加工専門工場として、淀川工場を設立した後、1980年代後半に冷酒ブームが起こった。お中元やお歳暮といえば、プレミア感のあるフロストが施されたお酒が贈られることが多く、売り上げの7-8割を酒ビンが占めた時期もあった。 その後、平成に入ってからは、リキュールなどをはじめ、ブランデーブームが到来した。また、麦焼酎や本格米焼酎など、一品種で年間加工本数の10%程を占める大ロットが受注でき、酒瓶フロストが本格化した。

さらに1988年にインプロ(インブリケイテッド・プロセス加工法)と呼ばれる「鱗模様」を形成する表面処理を開発した。このインプロは、高級酒や焼酎のニーズが増え、尼崎に工場を増設した。この年には、本社と生産設備を尼崎に集約させた。


■丸山工業所の歴史~2003年から現在~
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2003年、丸山起世志氏が社長に就任。2005年には、薬液を用いてスリミングするエッチング加工の量産を開始し、カバーガラスなどに使われている。2006年には、有機ELキャップガラスの溝を掘り込む加工を開始、量産体制も整えた。 また、2003年頃からAG(アンチグレア)と呼ばれる反射防止の表面処理の研究をスタートし、2013年からヨーロッパの高級車の車載用で採用、量産を始めた。大判のガラスを均一に処理するのは技術的に難易度が高く、他社も追随できていない。

基盤技術のフロストにおいても、海外有名ブランドの香水のキャップという今までにない用途の加工も増えてきている。現在では、フロスト、エッチング、AG加工の基盤技術で、様々なニーズに応えている。


■排水処理
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フロスト加工はフッ酸などの薬品を使用するため、高度な排水処理が求められる。尼崎に工場を移転した当時は、市役所から毎月水質検査を求められ、8ppm以下という基準を満たしているか厳しいチェックをされた。設備にはコストがかかるが、排水を疎かにすると環境問題につながるだけでなく、フロストのイメージ自体も脅かされる。そのため、この排水処理には高い意識を持ち、現在では尼崎市から表彰を受けるようになった。


(株)丸山工業所
http://maruyama-frosting.co.jp/

大阪ガラス産業史制作~神谷硝子製造株式会社 訪問報告~

訪問日 2017年9月20日
-取材を終えて-
先日会長が急逝されご多忙中にも関わらず、お時間いただき取材を受けていただきました。 会長からお話をいただく予定でしたが叶わなかったため、現社長の携わってきた範囲での取材になりました。 玄関にディスプレイされた様々な作家さんの作品をみて、形だけでなく色によってもその印象が大きく違ってくることがよくわかりました。 また、見学させていただいた工場は、昔から使っている道具や機械なども置いてあり、何か懐かしさも感じました。

■神谷硝子製造(株)の歴史
明治42年頃、浪速区境川にて現社長の曾祖父にあたる作次郎氏が神谷硝子製造所を創業、昭和39年の正一氏に代わるまで長きに渡り陣頭指揮を執った。 大正15年、事業拡張のため、港区辰巳町(現在の市岡地区)に拠点を移した。 このころ、模造真珠なども製造していたといわれており、多くの従業員が工場の周辺から通っていたという。 第二次世界大戦中は、企業整備令により大阪硬質硝子(株)となり、医療用硝子管生地やアンプルなどを製造していた。 その後大阪空襲により被災したが、戦後再建、神谷硝子製造株式会社として法人化した。 昭和34年には、大阪環状線の整備により、現在の港区波除に移転した。 昭和58年には憲司氏が社長になり、大阪硝子工業会に加盟、理事としても工業会にも尽力した。その後、平成28年からは周平氏が社長となっている。

■事業について

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現社長が入社された25年ほど前は、ガラスの素材のほか、おはじきの色ガラスや、時計の軸受けなどを製造していた。 時計の軸受けはプレスで剣山のような形状に成型し、それをカットして1個1個検品するという細かい作業であった。

現在は、工芸用のガラス生地や、水処理用のケミカルガラスを製造している。 工芸用ガラスは、岡山の小谷氏が手掛ける倉敷ガラスの生地として使われている。 倉敷ガラスは、小谷眞三が確立させた吹きガラスで、小谷ブルーと呼ばれる独特の青色を使ったガラス食器が有名である。 このような工芸用ガラスの生地は、お客様(作家さん)の要望に合わせて少しずつ違った色を作っている。中でも、薄い色は技術的に難易度が高く難しい。 ケミカルガラスは、銀を含有することで、銀イオンの効果を使って殺菌でき、水処理に使われている。

神谷硝子製造(株)
http://kamitani-glass.org/

大阪ガラス産業史制作~大阪特殊硝子株式会社 訪問報告~

訪問日 2017年9月19日
-取材を終えて-
明治25年当時の古いカタログを持参いただき、刊行物としても高い価値があるものとみてすぐわかり、1ページ1ページにその歴史の重さを感じました。時代に応じて製造するものが変遷していく中で、一貫してガラスをベースとしたモノづくりを続けられており、どの時代でも必要とされるガラスの価値を改めて実感いたしました。

-インタビュー内容-
■大阪特殊硝子(株)の歴史

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明23年、石木為治氏が石木硝子製造所を創業。現在の大阪硝子工業会のある場所で船燈用ガラス、照明用ガラスなど様々な特殊ガラスを製造していた。船燈用ガラスには、右舷と左舷で色を分ける必要があり、緑や赤の色ガラスが使われていた。当時色ガラスを作ることができる会社は少なく、高い技術力を持った会社であったといえる。

昭和5年には、艦船用覆ガラスや、ボイラー用ガラスの納入実績により、海軍指定工場となった。また、昭和6年には鉄道省指定工場となり、機関車用ボイラー水面計硝子や、信号用レンズなどを製造した。 第二次世界大戦では、大阪空襲で工場が焼失、窯だけが残った。この時、すべての資料が焼失したが、創業当時のカタログだけ辛うじて残った。

終戦後、昭和22年に大阪特殊硝子株式会社に組織変更した。船燈用ガラスの製造は昭和40年頃まで続き、昭和43年には照明事業へシフトしていった。高度経済成長期から照明の需要が拡大し、平成にはいるまで事業の柱となった。

平成3年にリフレクター(反射鏡)を開発し、光学分野にも進出した。当時、プロジェクターは黎明期で、高い精度を要求される光学部品を製造できる会社は少なかったが、ガラス素材を開発する技術、成型する技術、真空蒸着の技術などを融合し、いち早く参入することができた。現在も、照明用ガラスとプロジェクター用リフレクターが事業の核となっている。

■海外進出
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昭和62年に台湾、昭和63年に韓国と合弁会社を設立した。ガラス業界の共通課題である人材不足を解消するためであったが、この時代に海外進出を果たした会社は珍しく、業界内でも最も早かった。海外ではコスト対応品、日本では付加価値のあるものを製造した。当初、台湾と韓国の2か国で製造をしていたが、その後の両国の人件費引き上げなどで、平成6年に中国上海に現地法人(石木玻璃製品(上海)有限公司)を設立した。また、平成8年には石木灯飾日用品(上海)有限公司、平成16年には石木光学技術(上海)有限公司と、上海での拠点を増やしていった。現在では、製品の98%を上海で製造している。

商習慣や国による規制など、中国での事業の難しさから撤退する企業が多い中、20年以上にわたり上海で事業を継続している。中国で仕事をするノウハウと経験から、現在では商社としての事業も行うようになった。大手企業の製品を販売する窓口にもなっており、上海での「石木玻璃」の信頼度は高い。

大阪特殊硝子(株)
http://www.osglass.com/

大阪ガラス産業史制作~大阪ガス株式会社 取材報告~

訪問日 2017年9月19日
-取材を終えて-
生み出される製品自体に目が行きがちですが、製品の品質には設備や機械で支えられている部分もあるということがよくわかりました。また、炎の形状や性質が、ガラスに影響を与えるということも初めて知ることができ、大変勉強になりました。

■大阪ガスのガラス工場への取り組み

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1970年代まではガラス工場では重油が多く使われていたが、単独窯、連帯窯用の都市ガスバーナーを開発した。ガスバーナーはガラス向きではないと言われていたが、実地テストを繰り返して実用化を目指した。 1980年頃からは蓄熱式タンク窯用ガスアトマイズバーナーを開発し、ガス専焼炉も増えていった。 1990年には蓄熱式タンク窯用ガス専焼バーナーを開発した。また、2007年にはタンク窯用酸素燃焼バーナーを開発し、省エネにも取り組んでいる。

■ガスの優位性
ガスが使用されるようになる以前に主流であった重油は、重炭素分が多く炎の輝度が高く伝熱性が高い。 しかしながら、危険物であるため、受入設備や管理が必要となり、ハードルは高かった。また、環境面でも煤が多く出るなどの課題もあった。

一方で、ガスは重油に比べ炎の輝度輻射レベルが低いため、ガラスの溶解性が課題であった。しかしながら、バーナーの開発を繰り返し、多くのガラス工場で採用されるようになった。 ガラス製造においては、炎形状が重要になるが、ガラスの種類や、炉の形状でバーナーが変わるため、お客様ごとの仕様にあったものをオーダーメイドで開発している。


■今後の展開
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バーナー開発においては、実地テストを今なお繰り返している。溶融設備やお客様ごとに開発をし、製品のニーズに応えている。 また、近年では特に省エネニーズも多くあるため、酸素燃焼バーナーをはじめ省エネ化にも力を入れている。

■大阪硝子工業会の入会して
大阪硝子工業会の会員の中には大阪ガスを利用しているところは多く、情報交換の場にもなっている。また、工業会では対外的なイベントも多いため、 これまで取引のなかった会社も含め顔が広くなるきっかけにもなったと感じているという。

大阪ガス株式会社
http://www.osakagas.co.jp/

大阪ガラス産業史制作~川本工業株式会社 取材報告~

訪問日 2017年9月13日

-取材を終えて-
国内外の製薬業界の事情も交えながらお話いただき、アンプルとそれにまつわる社会的背景を理解することができました。 また、今では当たり前ではありますが、ITを活用した業務の効率化を、昭和の時代からしていたというのは驚きでした。

-インタビュー内容-
■川本工業(株)の歴史

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昭和16年、大阪旭区森小路に川本佐治郎氏を代表とする東洋硝子器製作所を発足。 医療用アンプルの製造販売を行い、当時は工場を持たず、内職のような形で職人さんに外注をしていた。 昭和24年に川本佐忠氏を代表とする川本硝子工業所を設立し、その後東洋硝子器製作所を合併、川本硝子株式会社を設立した。 昭和29年には日本機械アンプル企業組合を吸収合併し、職人や機械などもそのまま引き取り、事業を拡大させた。 昭和43年に、医療用硝子器部門に加え産業機械部を設置し、社名を川本工業株式会社と変更した。 昭和44年には山口県小野田市に小野田工場を新設・操業開始する。平成7年、47年弱代表を務めた佐忠退任後、現社長の吉昭氏が社長に就任した。


■小野田工場の新設と合理化への取り組み
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昭和44年に、山口県の小野田市に工場を新設した。 当時人手不足の解消と、取引先の田辺製薬が小野田市で注射器の製造を始めたことから、同市で工場を建設することになった。 小野田市役所や、田辺製薬のバックアップでリクルートを行い、職人や従業員を確保した。

小野田工場では、品質管理を徹底しデジタル化で業務の効率化を進めた。 ノートPCが世の中で出だしたころで、事務所内で全ての管理ができるようになった。 当時、ここまで早くITを導入して・実践しているところは珍しく、日立が視察にくるなど注目された。

一方で、大阪とは違い、人材育成には苦労をしたこともあった。自動計測器を導入した時は、 大阪ではうまくいったが小野田工場ではうまくいかないといったジレンマもあった。 しかしながら、機械の使いかたに工夫を加えながら、軌道に乗せることができた。

■産業機械部の設置
昭和43年に産業機械部を設置した。アンプルの洗浄や滅菌ができる機械を作り、製薬メーカーなどに販売した。 当時、手加工の職人が残っており、機械を作る際にアドバイスをしてもらったりしていた。 また、武田薬品がミャンマーに工場を作るときにこの機械を導入してもらうなど、多くの実績を作った。

この他、産業機械部では、ベビーベッドの耐久試験機や、ローラースケートの耐久試験機、金属バッドの耐久試験機なども作っており、 通産省の試験所などに設置されていた。

■アンプル業界の変遷
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昭和37年頃国民皆保険制度が始まると、アンプルの需要が一気に増えた。 ビタミン剤などの注射が保険適用になり、多くの医療機関でアンプルが使われた。 しかしながら、アンプル入りの風邪薬で死亡者がでるなど薬害とたたかれ、アンプルの需要が一気に落ち込んだ時期もあった。

社会的背景からアンプルを使った注射器の需要が減っただけでなく、ハンドリングのしやすさから樹脂容器の置き換えも進み、 アンプル業界は苦境の時代を迎えるようになる。一方で、アンプルはなくてはならない容器には変わりはなく、家電業界と異なり価格も安定している。 このことから、生産量と人とのコントロールをうまく図っていくことが、この業界の生きる道であるという。

川本工業株式会社
大阪市城東区生育一丁目3番8号

大阪ガラス産業史制作~株式会社赤川硬質硝子工業所 訪問報告~

訪問日 2017年9月6日
-取材を終えて-
製品1つ1つに物語があり、取材の時間が短く感じられるほどでした。工場はまさに研究所のようで、あのガラスもここで作っているのかと驚きと技術力の高さを実感しました。硝子の素材は、一般にはなかなか触れる機会が少なく難しく感じますが、最終製品を聞くと誰もが知る製品で、身近に感じるようになりました。

-インタビュー内容-
■赤川硬質硝子の歴史

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1929年、現社長の伯父が田辺硬質硝子製造所を設立し、アンプル管の製造を始めた。その後、大阪旭区赤川にあった赤川工場から分離独立したのが、赤川硬質硝子工業所である。当時は、試験管やビーカーなどの理化学用の硝子など様々な硝子製品を製造していた。日本電気硝子との関わりも深く、当時赤川硬質硝子が日本電気硝子へ資金援助など行い、アンプルの自動引きの成功に導いたといった経緯がある。現在は、小ロットでお客様が要望する特殊なガラスを開発から製造まで行っている。



■高い技術と幅広い製品
他社では数種類くらいの取扱いが多いが、赤川硬質硝子では100種類もの硝子を開発・製造している。胃カメラ用硝子、G-SHOCKのカバーガラス、航空・宇宙用、照明用など多岐にわたり、書ききれないほど幅広い製品に使われている。最近では、ホームページからの問い合わせも増え、小ロットでも生産対応している。特殊な硝子製品、硝子素材のため、機械や炉などは自社で開発したものを使い、独自の生産技術で製造している。

■時代の潮流と苦境の時代
携帯カバーガラスの引き合いが増え、森ノ宮や尼崎に工場を新設した。ボリュームの大きな製品の製造キャパを確保するためであったが、こういったボリュームの求められる製品を製造し続ける難しさを経験した。最終的には工場を閉鎖することになったが、現在は本社に集約して、小ロットで引き受ける体制を整え、細やかなリクエストにも応じることができるようになった。

■新開発の硝子
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応接間に入って最初に目を引いたのは「風を通すガラス」のポスターであった。ナノサイズの穴が開いたガラスで、穴の大きさをコントロールすることで、必要な気体のみを通すというガラスである。用途はまだわからないとのことだが、製品のネーミングもアイデアもとても斬新で印象深いものだった。また、各企業などで講師として指導もするなど、活躍の幅も広がっている。

(株)赤川硬質硝子工業所
http://www.akagawa-glass.co.jp/

大阪ガラス産業史制作~大和特殊硝子株式会社 訪問報告~

訪問日 2017年9月6日
-取材を終えて-
大正年間からという長い歴史があり、古い記録が少ない中、資料をかき集めていただきお話いただきました。 硝子だけでなくプラスチックも取り扱い、時代の流れや社会の要請にも随時応えていくという姿勢は「総合サプライヤー」としてリードしていこうという表れと感じました。 一方で、技術開発にも力を入れ、硝子屋としてのアイデンティティもしっかり引き継いでいくという意志も感じられました。

-インタビュー内容-
■大和特殊硝子歴史

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大正時代に武田薬品工業向けのアンプルを製造する商店として創業し、昭和17年、武田薬品工業の関連会社として戦時アンプルなどを製造する会社、三ツ矢アンプル製造を設立した。 福岡県の吉富製薬(現在の田辺三菱製薬)の敷地内に出張所と工場を建設し、主に吉富製薬向けのアンプルを製造する拠点を構えた。 昭和19年には、三ツ矢特殊硝子製造に名称を変更、半人工瓶(輸液を入れる瓶など)を製造していた。 昭和25年に現在の大和特殊硝子(株)に名称を変更し、昭和30年に堀上工場(現新高工場)を新設した。昭和39年に三津屋工場において管瓶の製造を開始し、現在の主力事業となっている。


■アンプルの手加工から機械化へ
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アンプルメーカーというのは、いわゆる「職人さん」の集まりで、技術を蓄積していったというよりは一人一人の職人技で支えられていた。 しかしながら、時代の流れの中で、自社にてガラス生地管の製造をやめ、自動成形と移っていった。(今では、国内で生地管を製造しているのは日本電気硝子の1社だけになった。)







■製薬業界の変化とともに、総合サプライヤーとして
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アンプルメーカーは、製薬業界や、社会の医療事情に沿って事業が成り立っていた。 ビタミン注射が保険適用であった80年代にアンプルは最盛期を迎え、その後、食料事情もよくなり、経口でビタミンも摂取できるようになったことなどから、保険適用から外れることになった。 そのため、ビタミン注射は大きく減少し、アンプルの衰退の一途をたどることになった。

一方、平成20年に現在の主力事業である管瓶生産を新高工場からの移設と、今後の需要増に備えての増産体制に対応すべく、市島第2工場を竣工した。 また、製薬会社のあらゆるニーズに応えるべく、樹脂容器の製造や、医薬関連商品、海外製医療容器および医療機器等の取り扱いを増やし医薬関連商品の総合サプライヤーとしての位置付けを図った。

■自動壜の変遷
昭和43年には、タンク炉を新設し、自動壜の製造を開始した。当時、東洋ガラスと業務提携をし、機械や人(技術者)を導入し、ドリンク瓶をメインに製造を始めた。 また、昭和59年に、ISマシーン、平成元年には、EISマシーンなどの成形機を導入し、大量生産への対応を図った。 自動壜業界は寡占状態の中でも、大手の瓶メーカーが一升瓶などの大きい瓶、中小は小さい瓶というように上手く棲み分けができていた。 しかしながら、約20年前から酒瓶の需要が減っていく中で、その垣根がなくなってきており、大手でも小さい瓶を製造するようになるなど競争が激しくなっている。 自動壜の需要は90年代にピークを迎え、平成24年にはピーク時の約50%となった。 90年代には男性向けの精力増強のドリンク(アリナミンなど)が多かったが、最近では、女性向けの美容を謳った栄養ドリンクが増えている。 平成23年の東日本大震災直後からの燃料の高騰により、当社の自動瓶部門は採算が悪化し、自動壜工場(市島第1工場)は、現在休止に至っている。

■設立50周年事業として、市島工場の建設
当時、ドリンク瓶のニーズが増え、8,200坪もの用地に市島工場(丹波市)という大規模な生産設備を新築した。 ドリンク瓶の増産という目的もあったが、公害問題が社会的に深刻になる中で、社会的要請も背景にあった。 当時、神崎川工場(大阪市)の周辺は住宅化が進み、24時間操業の工場にとっては、夜間の騒音問題が懸念されていた。このような中、50周年事業としてプロジェクトを進め、平成6年に市島工場が竣工した。

■今後の展開
最近の当社の最大のヒットは、VIST(ガラスバイアル用低アルカリ技術)という独自技術の開発であり、昨今、海外からの引き合いも多くなっている。 さらに新しい技術の開発も進めており、常に新しい技術に目を向け、お客様のニーズに幅広く応えていきたいという意気込みを桑原社長に語っていただきました。

大和特殊硝子(株)
http://www.dglass.co.jp/

大阪ガラス産業史制作~大商硝子株式会社 訪問報告~

訪問日 2017年9月6日
-取材を終えて-
コミュニケーションスペースと呼ばれるプランニングルームでお話いただきました。四方は明るいショーケースで囲まれ、非常に気持ちが高まるような空間でした。 会議スペース一つをとっても、大商硝子様のこだわりである高いデザイン性が強く感じられました。 また、同じ型のボトルでも、色、印刷のデザイン、使われ方で、まったく違う印象を与えるのがとても不思議でした。

-インタビュー内容-
■大商硝子歴史

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1917年土出英吉氏が神戸の居留地でガラス瓶の卸業を始めたのが創業の始まりで、 土出氏はバイタリティ溢れる人物で、国の海外の視察団の団長を務めるような人物でもあった。1949年に株式会社に改組し、1956年には今の大商硝子に社名を改めた。 現在は、プラスチック容器や点滴バッグのジョイントパーツなどを扱う大商化工(株)と貿易・商社部門の大商(株)というグループ会社も併せて総合的なニーズに応えている。



■-砡-GYOKU-
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1964年には砡という白色ガラスの容器製造をスタート。砡を中心に多数の色びんも加え、酒、飲料、調味料、食品容器から医薬品容器まで幅を広げている。 この乳白色の瓶はロングセラーで現在も続いており、極東地域で唯一、大商硝子のみが自動製造ができるメーカーになっている。

ガラス瓶は製造過程で、金型からビンを取り出しやすくするために離型剤を使うが、離型剤が炭化して小さな黒い欠点がつくことがある。この離型剤を使わずに製造するには高い技術力が必要とされるが、蓄積した独自のノウハウで、離形剤を使わずに製造することに成功した。GYOKUの乳白色はこうした技術の支えによってできた賜物であった。





■ブランディング
2000年頃から企画汎用型を充実させ、小ロット・低コストを実現した。同時に、デザイン性の高いものにこだわっていった。 従来はデザイン性の高いものはコストだけが高くなり、特異な形状であれば目立ちはするが、汎用性に乏しいという一面も持ち合わせる。 しかしながら、「そこから脱却」という目標を掲げ、実現へと進めていった。また、こうしたブランディングの流れは、新たな商圏、差別化などの狙いもあったが、いわば生き残るための戦略でもった。

カタログ、ホームページ、展示会など様々な情報発信のツールを用い、ブランドイメージを定着させてきた。 デザイン戦略室室長の中村様は、常に大商のブランドイメージ押し引きながらコントロールするかがポイントだという。 そのベースは社員一人ひとりが「期待を満足に、そして感動を。」という事業方針を胸に日々努力し、 オリジナリティ溢れる発想を生み出す企業としての存在感を示すことで、感度の高い人に魅せるツールとしても着実にマーケットに浸透していった。

■コミュニケーションスペース
各拠点にコミュニケーションスペースという新しいスタイルの商談スペースをつくった。ここには大商硝子のオリジナルのデザインのサンプルをみることができる 。カタログには「想いを、かたちに変える場所。」と表し、単にお客様との商談を進めるだけでなく、アイデアを生み出す場所と位置付けている。

■鳴門工場
大阪本社・工場は周辺の住宅化がすすみ、1986年に鳴門に工場を移転した。大塚製薬が鳴門に工場があったため、供給面から鳴門を選んだ 。この鳴門工場は、煙突がなく、電気炉を使うなど当時としては珍しく環境に配慮した工場であった。 また樹脂工場も併設しており、これも日本で唯一、大商硝子の特徴となっている。

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大商硝子(株)
http://www.daisho-g.co.jp/

大阪ガラス産業史制作~浅井硝子株式会社 訪問報告~

訪問日 2017年9月5日
-取材を終えて-
今回の社史の取材で初めての女性経営者ということで、とても興味深く拝聴させていただきました。 25年前にお亡くなりになった2代目の社長が残された詳細な資料をもとに、苦境の時代を経て現在のご発展に至るまでをお話いただきました。 職人さんが支える保守的なイメージの強いガラスびん業界ですが、常に先を見据えた事業展開をされているなと感じました。

※下記の報告にはお借りした資料の内容を一部引用しているところがあります。

-インタビュー内容-
■浅井硝子の歴史1(創業から昭和30年代)
浅井伊三郎氏が昭和15年に創業。伊三郎氏が山瀬硝子を経て独立し、硝子問屋業を始めたのが成り立ち。 創業当時、化粧品は贅沢品であったため、製造販売制限規制が発令された。そのため、一時営業を休止するなど苦境時代を経験する。

戦後は、資生堂やポーラなど大手化粧品メーカーとの取引も徐々に回復していった。 昭和25年には、株式会社浅井硝子製瓶所として法人化した。この当時、ガラス産業界においても、統制経済が解除され、飛躍的に発展していった時代であった。 昭和27年にはサンスターが発売した歯磨きの容器にガラス瓶が採用され、注文を受けるようになった。 このころ、取引先様の後押しもあり、工場を建設しビンの製造も始めるようになった。これが製造業としての浅井硝子の始まりになった。

■浅井硝子の歴史2(昭和40年代~平成初)
昭和40年代に入ると、福岡県の取引先様への出張の際によく見ていた焼酎瓶に販路を見出し、酒蔵メーカーにガラス瓶の売り込みを始めた。 その後、徐々に焼酎瓶の販路を拡大し、九州出張所を開設した。さらに、その後、焼酎ブームが到来し、急激に業績を伸ばしていった。 一方、昭和58年4月に先代社長の急死にともない、浅井智行氏が社長に就任した。平成2年には東京営業所を開設した。

■浅井硝子の歴史3(平成初~現在)

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平成5年、浅井幸子氏が社長に就任した。当時、母親の介護を11年続けているような状況であったが、周囲の人からの助言が後押しになり、 社長業を引き受けることになった。社長就任後は、大胆な人事改革を実行し、社長就任の翌年には過去最高の業績をあげるに至った。

しかしながら、平成7年の阪神淡路大震災で、もともと老朽化していた工場が雨もりなどの被害を受け、建て替えが必要な状況になった。 当時は半人工で製造しており、多くの職人さんを抱えていたが、建て替え費用が7億円もかかることがわかり、製造を廃止する決断をした。 そして、平成8年からガラス瓶のメーカーから商社へと転身するに至った。現在では、ボトル、キャップや中栓などの樹脂製品を製造出来る自社工場を持っている。

浅井硝子(株)
http://www.asai-glass.co.jp/

大阪ガラス産業史制作~オーエムジー株式会社 訪問報告~

訪問日 2017年7月19日
-取材を終えて-
取材にあたっては貴重な資料や書籍を用意していただき、事実を確認しながら丁寧にお話いただきました。 ガラス業界のお話だけでなく、堤社長が先人からこれまで言われてきた言葉や経験されてきたお話は印象深いものでした。取材後、工場を外から見学させていただきました。暑いというより熱いと感じる日でありましたが、こういう現場から大企業ではできないニッチな商品がうまれるんだなと感慨深いものがありました。

-インタビュー内容-
■オーエムジーの歴史/堤社長の経歴について

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オーエムジー㈱は、旧社名有限会社大阪眼鏡硝子として昭和17年8月にいわゆる戦時統合により眼鏡用硝子の事業所として製造業者が統合され昭和18年6月に登記設立された。 昭和20年当時は戦時中で航空機用防弾ガラスなども生産していた島田硝子(株)(現東洋ガラス)の疎開工場として存続したが、 戦後は東洋ガラスへ島田硝子の関連会社として吸収されたのち、昭和24年10月に株式会社に改組して、昭和28年に独立して島田商事と計画し現在の平野区に移転した。 戦後のある時期メガネ業界は景気が良かったが、先代社長時代の昭和40年代は大変厳しい時期もあった。 しかし職人さんを中心に残ってくれた従業員で必死に継続努力を続けてきた。その後カメラ用品や機能性ガラスで盛り返し、 光学部品なども増加し平成12年には眼鏡の文字を外して、現在のオーエムジー(株)に社名変更した。

現堤社長は昭和48年から3年間ヤマハ発動機(株)を経て、大阪眼鏡硝子(株)に入社した。戦後ある時期70-80人ほどいた従業員は12名まで減り、 その13人目として入社することになった。もともと継ぐ気はなかったが、親の病気や、周りからの勧めもありやってみようと思ったと振り返った。 しかしながら大量生産のガラスレンズやプラスチックレンズが地場ガラスレンズに取って代わるようになり、大阪地場ガラスレンズ業界は斜陽産業と言われていたが、 入社後自分で稼げと言われ、営業兼工場長として全社の力を結集して、自社の特徴や長所を伸ばして、5年で売上5倍にまで増やすことができたという。

■ターニングポイント
1980年代に眼鏡レンズ硝子生地でも年間100万個くらい生産していた時期が10年くらいあり、 90年代に入り(商社ははいっていたが)レイバンとも直接取引をするようになった。アメリカの工場に招かれていったのも深い思い出となった。 大きなターニングポイントは95年頃。超円高という時代がやってきて、日本経済が激変した。受注生産しているだけではいけないと、事業の多角化を大きく意識するようになった。持てるガラス材料技術ででききるものを考え、カメラ用以外の材料など光学分野も幅を広げた。 一方で、人、資金、技術力、場所といった限られた資源の中で進めていく難しさにもぶち当たった。 円高以外にもPL法や環境規制など対応すべき課題も増えていったが、少量多品種で丁寧にサービス業の精神でやっていくことで、又多くの外注協力関係により大変化を乗り越えていった。インターネット時代にいち早く対応して、これまでとは違う産業分野からの引き合いも増え、インターネットを通じた独自性のある発信力の重要さを増々感じる日々である。

■諸先輩からの助言
「実験を自分の都合の良いように解釈するな。自分の仮説からの悪い結果を勝手に排除するな。」と言われたことがある。 つまり、自分の都合の良いように結果を添わすのではなく、異常でおかしいと思ったことについて、その因果関係をきっちりと検証していくという大事さを学んだ。 虚心坦懐に事実と向き合うことが大事であり、経営者という立場は自分の家族だけでなく従業員、取引先などを多くの生活・命がかかっているのだからと思うようになった。

■大阪眼鏡硝子のリバイバル
現在、息子である堤友厚取締役の主導により、大阪眼鏡硝子の名でTHINGLASS(シングラス)という眼鏡ブランドを立ち上げた。 もともと、平野区のお隣の生野区周辺は眼鏡製造に関わる工場がたくさんあり、大阪の地場産業であった。

事業が多角化する中で、戦時中から続く事業を見直し、リバイバルを図っているまさに真最中だという。 東京の南青山の最先端のセレクトショップに飛び込みで営業し、販売にまでこぎつけた。2017年OMOTENASHIセレクションに選出され、 「眼鏡Begin」などファッション雑誌にも取り上げられるなど、情報発信の仕方が多様化する中で、こういったメディアもうまく取り入れる必要性を強調された。傷がつきにくく歪みのすくないガラスの特徴をしっかりとアピールし、かつて大阪の地場産業であった「ガラス」と「メガネ」を新世代が新たに発信している。

オーエムジー株式会社
http://www.omg-opt.co.jp/

大阪ガラス産業史制作~塩谷硝子株式会社 訪問報告~

訪問日 2017年6月7日
-取材を終えて-
アンプル、バイアルの歴史は医薬品業界とともにあり非常に深く濃い話を伺うことができました。 昭和20年代に行われていた手加工の製法を再現した貴重な映像もみることができ、当初予定時間2時間を過ぎても話は止まず、塩谷様の話だけで1冊の本できそうなくらいでした。

-インタビュー内容-
■塩谷硝子の歴史について

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昭和5年に中津で創業。当時、近くには中津運河が流れており、この周辺には多くのガラス屋があった。 燃料の石炭を船で運んでいたため、運河周辺にガラス屋が点在していた。この他、大阪では寝屋川運河や真田山周辺にガラス屋が多くまとまっていた。

塩谷硝子は、創業以来、元締め的存在で多くの下請けを抱える小野ガラスの下請け会社の1つであったが、戦後の小野ガラスの廃業により取引先と直接取引をするようになった。 昭和30年代ごろは、手加工でアンプルをつくる職人が3人1組のグループでまとまっており、会社がそこに下請けに出していた。 品質の良い組ほど注文を多くとることができ、組同士で競い合って品質を高めていった。 また、吹きガラスは、(写真のように)20m近くを走りながら、吹きながらガラスを伸ばして作っていた。

昭和39年、初代社長の塩谷巧が旧西ドイツのアンベック社より管瓶自動製造機を導入。日本初の縦式の機械であった。 当時はまだアンプルの製造は最盛期であったが、将来を見据えて導入された。これが塩谷硝子のターニングポイントであった。 昭和48年に抗生物質が発売されると管ビンの需要は一気に増えた。アンプル1本で事業を行っていたところはやがて衰退の道をたどっていったが、管ビン事業を導入していたため乗り切ることができた。

平成17年には、アンプルメーカーとしては日本で初めてのマレーシア進出を図った。 現在従業員45名で稼働しており、ジェネリック医薬品などコストが安く日本では対応できない安価な製品を主に製造している。 マレーシアでは、産出されたガスがそのままパイプラインで運ばれた生ガスを使用するため、ガスの精度がよくない。 不良率も高くなるが、それでも燃料費の高い日本に比べてはるかに製造コストを抑えることができる。

現在、年間500種を製造しており事業は順調であるが、いかにグローバル化に対応するかということが今後の課題である。 成功している欧州を手本に、展開していきたいと考えている。

■組合について
昭和23年に大阪アンプル協同組合が梅ヶ枝町にあった。現在は、塩谷硝子(株)内にあり、10社(内、4社は大阪硝子工業会の会員)が加盟している。 組合の目的は、アンプル業者同士の過剰な競争を避けるため、適正な話し合いの場を設けることであった。昭和48年に、GMP(医薬品の製造および品質管理に関する実績規範)が制定された。 これにより、容器への要求が上がったが、対応する力のない会社は撤退していった。

■ガラスアンプルの変遷
「注射」の需要を激減させる様々な歴史があった。 アンプルの割れ目を予め傷をつけて折れやすくするワンポイントができる前の頃、九大の青山教授がアンプルを割るとガラス片が薬液に入ると発表したことがあった。 これによりアンプル業界は大きなダメージを受けた。また、注射を同じところに打つと筋肉細胞に影響を与えるという話も注射を減らす原因となった。 さらに、ガラスから樹脂にとって代わるようになり、ガラスアンプルの需要は下降をたどっていった。 しかしながら、ガラスは薬液の溶出が少なく、耐熱性に優れ、長期保存が可能であるため今後もなくなることはない。 樹脂は取扱いが便利である一方、滅菌は低温殺菌しかできないため時間がかかるというデメリットがある。 また、現在樹脂は多層のものが増え、製造コストが上がってきている。ガラスも樹脂も悩ましい課題を抱えている。

■医薬品業界について
日本の医薬品業界は、欧米に比べて非常に遅れている。欧州、米国、日本は世界3大薬局法といわれているが、欧州と米国はガイドラインに対し、日本は法律で様々な制限・基準が設けられている。 さらに、各社で統一した基準がないため、海外の市場にでていきにくい状況を生んでいる。日本の医薬容器メーカーが発展しない理由がまさにこれである。 一方で、欧州の同業は世界進出を図り、2-3年先まで注文でいっぱいという話を聞く。特に開発途上国や、中国、ロシアからの注文が多いという。

塩谷硝子株式会社
http://www.shiotani-glass.com/

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